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三四郎 九の九

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三四郎 九の九

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夏目金之助

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 人の通らない軒燈ばかり明らかな露地を抜けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当る。時を切つて、自分の下宿の方から吹いてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄連れて行つて遣るだらう。

 下宿の二階へ上つて、自分の室へ這入つて、坐つて見ると、矢っ張り風の音がする。三四郎は斯う云ふ風の音を聞く度に、運命といふ字を思ひ出す。ごうと鳴つて来る度に竦みたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為めに製へられてゐる。しかも多少の程度に於て、和気靄然たる翻弄を受ける様に製らへられてゐる。与次郎は愛すべき悪戯ものである。向後も此愛すべき悪戯ものゝ為に、自分の運命を握られてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥かに与次郎以上の風である。

 三四郎は母から来た三拾円を枕元へ置いて寐た。此三拾円も運命の翻弄が産んだものである。此三拾円が是から先どんな働らきをするか、丸で分らない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受取るときに、又一煽り来るに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく来れば好いと思つた。

 三四郎はそれなり寐付いた。運命も与次郎も手を下し様のない位すこやかな眠に入つた。すると半鐘の音で眼が覚めた。何所かで人声がする。東京の火事は是で二返目である。三四郎は寐巻の上へ羽織を引掛けて、窓を明けた。風は大分落ちてゐる。向ふの二階屋が風の鳴るなかに、真黒に見える。家が黒い程、家の後の空は赤かつた。

 三四郎は寒いのを我慢して、しばらく此赤いものを見詰てゐた。其時三四郎の頭には運命があり/\と赤く映つた。三四郎は又暖かい布団のなかに潜り込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂ひ回る多くの人の身の上を忘れた。

 夜が明ければ常の人である。制服を着けて、帳面を持つて、学校へ出た。たゞ三拾円を懐にする事だけは忘なかつた。生憎時間割の都合が悪い。三時迄ぎつしり詰つてゐる。三時過に行けば、よし子も学校から帰つて来てゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄も在宅かも知れない。人がゐては、金を返すのが、全く駄目の様な気がする。

 又与次郎が話し掛けた。

「昨夜は御談義を聞いたか」

「なに御談義といふ程でもない」

「左うだらう、野々宮さんは、あれで理由の解つた人だからな」と云つて何所へ行つて仕舞つた。二時間後の講義のときに又出逢つた。

「広田先生の事は大丈夫旨く行きさうだ」と云ふ。どこ迄事が運んだかと聞いて見ると、

「いや心配しないでも好い。いづれ緩くり話す。先生が君がしばらく来ないと云つて、聞いてゐたぜ。時々行くが好い。先生は一人ものだからな。吾々が慰めて遣らんと、不可ん。今度何か買つて来い」と云ひつ放して、それなり消えて仕舞つた。すると、次の時間に又何処からか現れた。今度は何と思つたか、講義の最中に、突然、

「金受取たりや」と電報の様なものを白紙へ書いて出した。三四郎は返事を書かうと思つて、教師の方を見ると、教師がちやんと此方を見てゐる。白紙を丸めて足の下へ抛げた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。

「金は受取つた。此所にある」

「左うか夫は好かつた。返す積りか」

「無論返すさ」

「それが好からう。早く返すが好い」

「今日返さうと思ふ」

「うん午過遅くならゐるかもしれない」

「何所かへ行くのか」

「行くとも、毎日々々画に描かれに行く。もう余っ程出来たらう」

「原口さんの所か」

「うん」

 三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞き取つた。