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三四郎 十の六
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夏目金之助
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「かう遣つて毎日描いてゐると、毎日の量が積り積つて、しばらくする内に、描いてゐる画に一定の気分が出来てくる。だから、たとひ外の気分で戸外から帰つて来ても、画室へ這入つて、画に向ひさへすれば、ぢきに一種一定の気分になれる。つまり画の中の気分が、此方へ乗り移るのだね。里見さんだつて同じ事だ。自然の儘に放つて置けば色々の刺激で色々の表情になるに極つてゐるんだが、それが実際画の上に大した影響を及ぼさないのは、あゝ云ふ姿勢や、斯う云ふ乱雑な鼓だとか、鎧だとか、虎の皮だとかいふ周囲のものが、自然に一種一定の表情を引き起す様になつて来て、其習慣が次第に他の表情を圧迫する程強くなるから、まあ大抵なら、此眼付を此儘で仕上げて行けば好いんだね。それに表情と云つたつて……」
原口さんは突然黙つた。何所か六かしい所へ来たと見える。二歩許立ち退いて、美禰子と画を頻に見較べてゐる。
「里見さん、何うかしましたか」と聞いた。
「いゝえ」
此答は美禰子の口から出たとは思へなかつた。美禰子はそれ程静かに姿勢を崩さずにゐる。
「それに表情と云つたつて」と原口さんが又始めた。「画工はね、心を描くんぢやない。心が外へ見世を出してゐる所を描くんだから、見世さへ手落なく観察すれば、身代は自から分るものと、まあ、さうして置くんだね。見世で窺へない身代は画工の担任区域以外と諦らめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いてゐる。どんな肉を描いたつて、霊が籠らなければ、死肉だから、画として通有しない丈だ。そこで此里見さんの眼もね。里見さんの心を写す積で描いてゐるんぢやない。たゞ眼として描いてゐる。此眼が気に入つたから描いてゐる。此眼の恰好だの、二重瞼の影だの、眸の深さだの、何でも僕に見える所丈を残りなく描いて行く。すると偶然の結果として、一種の表情が出て来る。もし出て来なければ、僕の色の出し具合が悪かつたか、恰好の取り方が間違がつてゐたか、何方かになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方がない」
原口さんは、此時又二歩ばかり後へ退つて、美禰子と画とを見較べた。
「何うも、今日は何うかしてゐるね。疲れたんでせう。疲れたら、もう廃しませう。――疲れましたか」
「いゝえ」
原口さんは又画へ近寄つた。
「それで、僕が何故里見さんの眼を択んだかと云ふとね。まあ話すから聞き給へ。西洋画の女の顔を見ると、誰の描いた美人でも、屹度大きな眼をしてゐる。可笑しい位大きな眼ばかりだ。所が日本では観音様を始めとして、お多福、能の面、もつとも著るしいのは浮世絵にあらはれた美人、悉く細い。みんな象に似てゐる。何故東西で美の標準がこれ程違ふかと思ふと、一寸不思議だらう。所が実は何でもない。西洋には眼の大きい奴ばかりゐるから、大きい眼のうちで、美的淘汰が行はれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーといふ男は、日本人の眼は、あれで何うして開けるだらうなんて冷かしてゐる。――そら、さう云ふ国柄だから、どうしたつて材料の寡ない大きな眼に対する審美眼が発達しやうがない。そこで撰択の自由の利く細い眼のうちで、理想が出来て仕舞つたのが、歌麿になつたり、祐信になつたりして珍重がられてゐる。然しいくら日本的でも、西洋画には、あゝ細いのは盲目を描いた様で見共なくつて不可ない。と云つて、ラフアエルの聖母の様なのは、天でありやしないし、有つた所が日本人とは云はれないから、其所で里見さんを煩はす事になつたのさ。里見さんもう少時ですよ」
答はなかつた。美禰子は凝としてゐる。