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彼岸過迄 第三十章

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彼岸過迄 第三十章

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夏目漱石

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「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って来て貰えば好かった」

「だから他の云う事を聞いて、もっといらっしゃれば好いのに」

「いいえあの時にさ。僕の帰った時にさ」

「そうするとまるで看護婦みたようね。好いわ看護婦でも、ついて来て上げるわ。なぜそう云わなかったの」

「云っても断られそうだったから」

「あたしこそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。たまに招待に応じて来ておきながら、厭にむずかしい顔ばかりしているんですもの。本当にあなたは少し病気よ」

「だから千代子について来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。

 僕は母の帰るつい一時間前まで千代子の来る事を予想し得なかった。それは今改めてくり返す必要もないが、それと共に僕は母が高木について齎らす報道をほとんど確実な未来として予期していた。穏やかな母の顔が不安と失望で曇る時の気の毒さも予想していた。僕は今この予期と全く反対の結果を眼の前に見た。彼らは二人とも常に変らない親しげな叔母姪であった。彼らの各自は各自に特有な温か味と清々しさを、いつもの通り互いの上に、また僕の上に、心持よく加えた。

 その晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に上って涼みながら話をした。僕は母の命ずるまま軒端に七草を描いた岐阜提灯をかけて、その中に細い蝋燭を点けた。熱いから電灯を消そうと発議した千代子は、遠慮なく畳の上を暗くした。風のない月が高く上った。柱に凭れていた母が鎌倉を思い出すと云った。電車の音のする所で月を看るのは何だかおかしい気がすると、この間から海辺に馴染んだ千代子が評した。僕は先刻の籐椅子の上に腰をおろして団扇を使っていた。作が下から二度ばかり上って来た。一度は煙草盆の火を入れ更えて、僕の足の下に置いて行った。二返目には近所から取り寄せた氷菓子を盆に載せて持って来た。僕はそのたびごと階級制度の厳重な封建の代に生れたように、卑しい召使の位置を生涯の分と心得ているこの作と、どんな人の前へ出ても貴女としてふるまって通るべき気位を具えた千代子とを比較しない訳に行かなかった。千代子は作が出て来ても、作でないほかの女が出て来たと同じように、なんにも気に留めなかった。作の方ではいったん起って梯子段の傍まで行って、もう降りようとする間際にきっと振り返って、千代子の後姿を見た。僕は自分が鎌倉で高木を傍に見て暮した二日間を思い出して、材料がないから何も考えないと明言した作に、千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐れに眺めた。

「高木はどうしたろう」という問が僕の口元までしばしば出た。けれども単なる消息の興味以外に、何かためにする不純なものが自分を前に押し出すので、その都度卑怯だと遠くで罵られるためか、つい聞くのをいさぎよしとしなくなった。それに千代子が帰って母だけになりさえすれば、彼の話は遠慮なくできるのだからとも考えた。しかし実を云うと、僕は千代子の口から直下に高木の事を聞きたかったのである。そうして彼女が彼をどう思っているか、それを判切胸に畳み込んでおきたかったのである。これは嫉妬の作用なのだろうか。もしこの話を聞くものが、嫉妬だというなら、僕には少しも異存がない。今の料簡で考えて見ても、どうもほかの名はつけ悪いようである。それなら僕がそれほど千代子に恋していたのだろうか。問題がそう推移すると、僕も返事に窮するよりほかに仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を脈搏の上に感じていなかったからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深い訳になるが、あるいはそうかも知れない。しかしもっと適当に評したら、おそらく僕本来のわがままが源因なのだろうと思う。ただ僕は一言それにつけ加えておきたい。僕から云わせると、すでに鎌倉を去った後なお高木に対しての嫉妬心がこう燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりでなく、千代子自身に重い責任があったのである。相手が千代子だから、僕の弱点がこれほどに濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚らない。では千代子のどの部分が僕の人格を堕落させるだろうか。それはとても分らない。あるいは彼女の親切じゃないかとも考えている。