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彼岸過迄 第三十二章
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夏目漱石
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翌日はいつも一人で寝ている時より一時間半も早く眼が覚めた。すぐ起きて下へ降りると、銀杏返しの上へ白地の手拭を被って、長火鉢の灰を篩っていた作が、おやもう御目覚でと云いながら、すぐ顔を洗う道具を風呂場へ並べてくれた。僕は帰りに埃だらけの茶の間を爪先で通り抜けて玄関へ出た。その時ついでに二人の寝ている座敷を蚊帳越しに覗いて見たら、目敏い母も昨日の汽車の疲が出たせいか、まだ静かな眠を貪ぼっていた。千代子は固より夢の底に埋まっているように正体なく枕の上に首を落していた。僕は目的もなく表へ出た。朝の散歩の趣を久しく忘れていた僕には、常に変わらない町の色が、暑さと雑沓とに染めつけられない安息日のごとく穏やかに見えた。電車の線路が研ぎ澄まされた光を真直に地面の上に伸ばすのも落ちついた感じであった。けれども僕は散歩がしたくって出たのではなかった。ただ眼が早く覚め過ぎて、中有に延びた命の断片を、運動で埋めるつもりで歩くのだから、それほどの興味は空にも地にも乃至町にも見出す事ができなかった。
一時間ばかりして僕はむしろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻って来た。母はどこへ行ったのと聞いたが、後から、色沢が好くないよ、どうかおしかいと尋ねた。
「昨夕好く寝られなかったんでしょう」
僕は千代子のこの言葉に対して答うべき術を知らなかった。実を云うと、昂然としてなに好く寝られたよと云いたかったのである。不幸にして僕はそれほどの技巧家でなかった。と云って、正直に寝られなかったと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕はついに何も答えなかった。
三人が同じ食卓で朝飯を済ますや否や、母が昨日涼しいうちにと頼んでおいた髪結が来た。洗い立の白い胸掛をかけて、敷居越に手を突いた彼女は、御帰りなさいましと親しい挨拶をした。彼女はこの職業に共通なめでたい口ぶりを有っていた。それを得意に使って、内気な母に避暑を誇の種に話させる機会を一句ごとに作った。母は満足らしくも見えたが、そう蝶蝶しくは饒舌り得なかった。髪結はより効目のある相手として、すぐ年の若い千代子を選んだ。千代子は固より誰彼の容赦なく一様に気易く応対のできる女だったので、御嬢様と呼びかけられるたびに相当の受答をして話を勢ました。千代子の泳の噂が出た時、髪結は活溌で宜しゅうございます、近頃の御嬢様方はみんな水泳の稽古をなさいますと誰が聞いても拵えたような御世辞を云った。
妙な事を吹聴するようでおかしいが、実をいうと僕は女の髪を上げるところを見ているのが好きであった。母が乏しい髪を工面して、どうかこうか髷に結い上げる様子は、いくら上手が纏めるにしても、それほど見栄のある画ではないが、それでも退屈を凌ぐには恰好な慰みであった。僕は髪結の手の動く間に、自然とでき上って行く小さな母の丸髷を眺めていた。そうして腹の中で、千代子の髪を日本流に櫛を入れたらさぞみごとだろうと思った。千代子は色の美くしい、癖のない、長くて多過ぎる髪の所有者だったからである。この場合いつもの僕なら、千代ちゃんもついでに結って御貰いなときっと勧めるところであった。しかし今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向って投げかける気が出悪かった。すると偶然にも千代子の方で、何だかあたしも一つ結って見たくなったと云い出した。母は御結いよ久しぶりにと誘なった。髪結は是非御上げ遊ばせな、私始めて御髪を拝見した時から束髪にしていらっしゃるのはもったいないと思っとりましたとさも結いたそうな口ぶりを見せた。千代子はとうとう鏡台の前に坐った。
「何に結おうかしら」
髪結は島田を勧めた。母も同じ意見であった。千代子は長い髪を背中に垂れたまま突然市さんと呼んだ。
「あなた何が好き」
「旦那様も島田が好きだときっとおっしゃいますよ」
僕はぎくりとした。千代子はまるで平気のように見えた。わざと僕の方をふり返って、「じゃ島田に結って見せたげましょうか」と笑った。「好いだろう」と答えた僕の声はいかにも鈍に聞こえた。