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彼岸過迄 第四章

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彼岸過迄 第四章

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夏目漱石

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「おれは御前の叔父だよ。どこの国に甥を憎む叔父があるかい」

 市蔵はこの言葉を聞くや否やたちまち薄い唇を反らして淋しく笑った。僕はその淋しみの裏に、奥深い軽侮の色を透し見た。自白するが、彼は理解の上において僕よりも優れた頭の所有者である。僕は百もそれを承知でいた。だから彼と接触するときには、彼から馬鹿にされるような愚をなるべく慎んで外に出さない用心を怠らなかった。けれども時々は、つい年長者の傲る心から、親しみの強い彼を眼下に見下して、浅薄と心付ながら、その場限りの無意味にもったいをつけた訓戒などを与える折も無いではなかった。賢こい彼は僕に恥を掻かせるために、自分の優越を利用するほど、品位を欠いた所作をあえてし得ないのではあるが、僕の方ではその都度彼に対するこっちの相場が下落して行くような屈辱を感ずるのが例であった。僕はすぐ自分の言葉を訂正しにかかった。

「そりゃ広い世の中だから、敵同志の親子もあるだろうし、命を危め合う夫婦もいないとは限らないさ。しかしまあ一般に云えば、兄弟とか叔父甥とかの名で繋がっている以上は、繋がっているだけの親しみはどこかにあろうじゃないか。御前は相応の教育もあり、相応の頭もある癖に、何だか妙に一種の僻みがあるよ。それが御前の弱点だ。是非直さなくっちゃいけない。傍から見ていても不愉快だ」

「だから叔父さんまで嫌っていると云うのです」

 僕は返事に窮した。自分で気のつかない自分の矛盾を今市蔵から指摘されたような心持もした。

「僻みさえさらりと棄ててしまえば何でもないじゃないか」と僕はさも事もなげに云って退けた。

「僕に僻があるでしょうか」と市蔵は落ちついて聞いた。

「あるよ」と僕は考えずに答えた。

「どういうところが僻んでいるでしょう。判然聞かして下さい」

「どういうところがって、――あるよ。あるからあると云うんだよ」

「じゃそういう弱点があるとして、その弱点はどこから出たんでしょう」

「そりゃ自分の事だから、少し自分で考えて見たらよかろう」

「あなたは不親切だ」と市蔵が思い切った沈痛な調子で云った。僕はまずその調子に度を失った。次に彼の眼の色を見て萎縮した。その眼はいかにも恨めしそうに僕の顔を見つめていた。僕は彼の前に一言の挨拶さえする勇気を振い起し得なかった。

「僕はあなたに云われない先から考えていたのです。おっしゃるまでもなく自分の事だから考えていたのです。誰も教えてくれ手がないから独りで考えていたのです。僕は毎日毎夜考えました。余り考え過ぎて頭も身体も続かなくなるまで考えたのです。それでも分らないからあなたに聞いたのです。あなたは自分から僕の叔父だと明言していらっしゃる。それで叔父だから他人より親切だと云われる。しかし今の御言葉はあなたの口から出たにもかかわらず、他人より冷刻なものとしか僕には聞こえませんでした」

 僕は頬を伝わって流れる彼の涙を見た。幼少の時から馴染んで今日に及んだ彼と僕との間に、こんな光景はいまだかつて一回も起らなかった事を僕は君に明言しておきたい。したがってこの昂奮した青年をどう取り扱っていいかの心得が、僕にまるで無かった事もついでに断っておきたい。僕はただ茫然として手を拱ぬいていた。市蔵はまた僕の態度などを眼中において、自分の言葉を調節する余裕を有たなかった。

「僕は僻んでいるでしょうか。たしかに僻んでいるでしょう。あなたがおっしゃらないでも、よく知っているつもりです。僕は僻んでいます。僕はあなたからそんな注意を受けないでも、よく知っています。僕はただどうしてこうなったかその訳が知りたいのです。いいえ母でも、田口の叔母でも、あなたでも、みんなよくその訳を知っているのです。ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の中であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから生涯の敵としてあなたを呪います」

 市蔵は立ち上った。僕はそのとっさの際に決心をした。そうして彼を呼びとめた。