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彼岸過迄 第六章

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彼岸過迄 第六章

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夏目漱石

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「おれはそう思うんだ。だから少しも隠す必要を認めていない。御前だって健全な精神を持っているなら、おれと同じように思うべきはずじゃないか。もしそう思う事ができないというなら、それがすなわち御前の僻みだ。解ったかな」

「解りました。善く解りました」と市蔵が答えた。僕は「解ったらそれで好い、もうその問題についてかれこれというのは止しにしようよ」と云った。

「もう止します。もうけっしてこの事について、あなたを煩らわす日は来ないでしょう。なるほどあなたのおっしゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたのです。僕はあなたの御話を聞くまでは非常に怖かったです。胸の肉が縮まるほど怖かったです。けれども御話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り何だか急に心細くなりました。淋しいです。世の中にたった一人立っているような気がします」

「だって御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだって今までのおれだよ。誰も御前に対して変るものはありゃしないんだよ。神経を起しちゃいけない」

「神経は起さなくっても淋しいんだから仕方がありません。僕はこれから宅へ帰って母の顔を見るときっと泣くにきまっています。今からその時の涙を予想しても淋しくってたまりません」

「御母さんには黙っている方がよかろう」

「無論話しゃしません。話したら母がどんな苦しい顔をするか分りません」

 二人は黙然として相対した。僕は手持無沙汰に煙草盆の灰吹を叩いた。市蔵はうつむいて袴の膝を見つめていた。やがて彼は淋しい顔を上げた。

「もう一つ伺っておきたい事がありますが、聞いて下さいますか」

「おれの知っている事なら何でも話して上げる」

「僕を生んだ母は今どこにいるんです」

 彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の肥立が悪かったせいだとも云い、または別の病だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい餓えた彼の眼を静めるに足りなかった。彼の生母の最後の運命に関する僕の話は、わずか二三分で尽きてしまった。彼は遺憾な顔をして彼女の名前を聞いた。幸にして僕は御弓という古風な名を忘れずにいた。彼は次に死んだ時の彼女の年齢を問うた。僕はその点に関して、何という確とした知識を有っていなかった。彼は最後に、彼の宅に奉公していた時分の彼女に会った事があるかと尋ねた。僕はあると答えた。彼はどんな女だと聞き返した。気の毒にも僕の記憶はすこぶる朦朧としていた。事実僕はその当時十五六の少年に過ぎなかったのである。

「何でも島田に結ってた事がある」

 このくらいよりほかに要領を得た返事は一つもできないので、僕もはなはだ残念に思った。市蔵はようやく諦らめたという眼つきをして、一番しまいに、「じゃせめて寺だけ教えてくれませんか。母がどこへ埋っているんだか、それだけでも知っておきたいと思いますから」と云った。けれども御弓の菩提所を僕が知ろうはずがなかった。僕は呻吟しながら、已を得なければ姉に聞くよりほかに仕方あるまいと答えた。

「御母さんよりほかに知ってるものは無いでしょうか」

「まああるまいね」

「じゃ分らないでもよござんす」

 僕は市蔵に対して気の毒なようなまたすまないような心持がした。彼はしばらく庭の方を向いて、麗かな日脚の中に咲く大きな椿を眺めていたが、やがて視線をもとに戻した。

「御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのも、やっぱり血統上の考えから、身縁のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね」

「全くそこだ。ほかに何にもないんだ」

 市蔵はそれでは貰おうとも云わなかった。僕もそれなら貰うかとも聞かなかった。