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彼岸過迄 第十二章

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彼岸過迄 第十二章

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夏目漱石

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 好奇心に駆られた敬太郎は破るようにこの無名氏の書信を披いて見た。すると西洋罫紙の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。

「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室に置いてある荷物を始末したら――行李の中には衣類その他がすっかり這入っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者故僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣輩が食物にしたがるものですから、その辺はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾の至だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」

 森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後へ自分が旅行した満洲地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春とかにある博打場の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼になりながら、一種の臭気を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰み半分わざと垢だらけな着物を着て、こっそりここへ出入するというんだから、森本だってどんな真似をしたか分らないと敬太郎は考えた。

 手紙の末段には盆栽の事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載せておいて朝夕眺めるにはちょうど手頃のものです。あれを献上するからあなたの室へ持っていらっしゃい。もっとも雷獣とそうしてズクは両人共極めて不風流故、床の間の上へ据えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入に、僕の洋杖が差さっているはずです。あれも価格から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」

 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入の都度、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。