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彼岸過迄 第二十二章
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夏目漱石
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田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下で、乗降に忙がしい多数の客の中から、指定された局部の一点を目標に、これだと思う男を過ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具えるやらして、電灯以外の景気を点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際ではという覚束ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降の外套に黒の中折という服装で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰好にしろ手がかりになり様はずがないが、黒の中折を被っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日だから、すぐ眼につくだろう。それを目宛に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を眺めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に向へ着くとしたところで、三時頃から宅を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美土代町と小川町が、丁字になって交叉している三つ角の雑沓が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘うに足る上分別は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の縁に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端に、この間浅草で占ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出に入れておいた。でまたその紙片を取り出して、自分のようで他人のような、長いようで短かいような、出るようで這入るようなという句を飽かず眺めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲の物から、自分のようで他人のような、長いようで短かいような、出るようで這入るようなものを探しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
ところがまず眼の前の机、書物、手拭、座蒲団から順々に進行して行李鞄靴下までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室の中を駆け廻って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降の外套を着た黒の中折を被った背の高い瘠ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯を生やした森本の容貌を想像の眼で眺めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。