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彼岸過迄 第二十四章
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夏目漱石
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主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢を抱え込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。敬太郎が梯子段の中途で、及び腰をして、硝子越に障子の中を覗いていると、主人の頭の上で忽然呼鈴が烈しく鳴り出した。主人は仰向いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと次の間へ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分の室へ帰って来た。
彼はわざわざ戸棚を開けて、行李の上に投げ出してあるセルの袴を取り出した。彼はそれを穿くとき、腰板を後に引き摺って、室の中を歩き廻った。それから足袋を脱いで、靴下に更えた。これだけ身装を改めた上、彼はまた三階を下りた。居間を覗くと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。呼鈴も今度は鳴らなかった。家中ひっそり閑としていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に靠れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から斜に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人は案の上、「御出かけで」と挨拶した。そうして例の通り下女を呼んで下駄箱にしまってある履物を出させようとした。敬太郎は主人一人の眼を掠すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては敵わないと思って、いや宜しいと云いながら、自分で下駄箱の垂を上げて、早速靴を取りおろした。旨い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿いてしまったんで、また上るのが面倒だから」
敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは到底弁じない用事なので、「はあようがす」と云って気さくに立って梯子段を上って行った。敬太郎はそのひまに例の洋杖を傘入から抽き取ったなり、抱き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲った角を、右の腋の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下から杖を出して蛇の首をじっと眺めた。そうして袂の手帛で上から下まで綺麗に埃を拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に顋を載せた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を顧みて、ほっと一息吐いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、偸むように持ち出した洋杖が、どうすれば眉と眉の間の黒子を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他人のような、長いような短かいような、出るような這入るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで携さえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと袖に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの間、瘧を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほど業を煮やした先刻の努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所作を紛らす為に、わざと洋杖を取り直して、電車の床をとんとんと軽く叩いた。
やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍から、真直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。