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彼岸過迄 第三十三章

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彼岸過迄 第三十三章

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夏目漱石

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 もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎は自分の前に残された皿の上の肉刀と、その傍に転がった赤い仁参の一切を眺めていた。女はなお男を強いる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って逃れていた。しかし相手を怒らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆が運ばれる時分には、女もとうとう我を折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会に小耳に挟んでおきたかったが、いよいよ話が纏まらないとなると、男女の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。

「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。

「あれって、ただあれじゃ分らない」

「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」

「ちっとも分らない」

「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」

 敬太郎はちょっと振り向いて後が見たくなった。その時階段を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に上って来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿いた軍人であった。そうして床の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側の室へ案内された。この物音が例の男と女の会話を攪き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。

「この間見せていただいたものよ。分って」

 男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ淡泊に自分の欲しいというものの名を判切云ってくれないかを恨んだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、

「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。

「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度でいいから」

「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」

「あッ嬉しい」

 敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は慎しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の上り口の方から、給仕が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き更えに、二人の前へ置いて行った。

「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。

「妾もうたくさん」

 女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれと逼ったのは珊瑚樹の珠か何からしい。男はこういう事に精通しているという口調で、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家の嬉しがる知識に過ぎなかった。練物で作ったのへ指先の紋を押しつけたりして、時々旨くごまかした贋物があるが、それは手障りがどこかざらざらするから、本当の古渡りとは直区別できるなどと叮嚀に女に教えていた。敬太郎は前後を綜合わして、何でもよほど貴とい、また大変珍らしい、今時そう容易くは手に入らない時代のついた珠を、女が男から貰う約束をしたという事が解った。

「やるにはやるが、御前あんなものを貰って何にする気だい」

「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」