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彼岸過迄 第三十五章
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夏目漱石
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彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを悔んだ。けれども二人が彼に気兼をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を据えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで坐ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子の廂へ雨が二雫ほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向いて黒い空を眺めた。闇よりほかに何も眼を遮ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼は頬の上に一滴の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好さえ分らない大きな暗いものを見つめている間に、今にも降り出すだろうという掛念をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似を好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖にあるような気がした。彼は例のごとく蛇の頭を握って、寒さに対する欝憤を晴らすごとくに、二三度それを烈しく振った。その時待ち佗びた人の影法師が揃って洋食店の門口を出た。敬太郎は何より先に女の細長い頸を包む白い襟巻に眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も猶予なく向うへ渡った。彼らは緩い歩調で、賑やかに飾った店先を軒ごとに覗くように足を運ばした。後から跟いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男は香の高い葉巻を銜えて、行く行く夜の中へ微かな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合で後から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく侵した。彼はその香いを嗅ぎ嗅ぎ鈍い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いので後から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少錯覚を助けた。すると聯想がたちまち伴侶の方に移って、女が旦那から買って貰った革の手袋を穿めている洋妾のように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似た。すると二人はまた美土代町の角をこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍へ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方を顧みた。固より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の鍔をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当を眺めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗びた。
間もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った後から這入って、嫌疑を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾を踏まえないばかりに引き摺って車掌台の上に足を移した。しかしあとから直続くと思った男は、案外上る気色もなく、足を揃えたまま、両手を外套の隠袋に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託されたのは女と関係のない黒い中折帽を被った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。