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彼岸過迄 第四章

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彼岸過迄 第四章

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夏目漱石

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 それでも田口は別段厭な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋ぎの言葉を、時々敬太郎のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。

「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」

 田口のこの挨拶の中に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。

「いったいあの人は何なんですか」

「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」

 敬太郎の前には黒の中折を被って、襟開の広い霜降の外套を着た男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣いといい歩きつきといい、何から何まで判切見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。

「どうも分りません」

「じゃ性質はどんな性質でしょう」

 性質なら敬太郎にもほぼ見当がついていた。「穏やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。

「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」

 こう云った時、田口の唇の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞いでしまった。

「若い女には誰でも優しいものですよ。あなただって満更経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍で自分を見たらさぞ気の利かない愚物になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。

「じゃ女は何物なんでしょう」

 田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り悪いです」と答えてしまった。

「素人だか黒人だか、大体の区別さえつきませんか」

「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革の手袋だの、白い襟巻だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。

「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿めていましたが……」

 女の身に着けた品物の中で、特に敬太郎の注意を惹いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。

 敬太郎は先刻自分の報告が滞りなく済んだ証拠に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後で、こう難問が続発しようとは毫も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競り上って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。

「例えば夫婦だとか、兄弟だとか、またはただの友達だとか、情婦だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」

「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」

「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」