← 作品

彼岸過迄 第十一章

title

彼岸過迄 第十一章

author

夏目漱石

body

 二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯の違だか段の違だか、松本の云う事は肝心の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎の血の中まで這入り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹らないらしかった。

 こんな縁遠い話をしている中で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達のため細君同伴で亜米利加へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎やらに忙殺されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露した。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。

「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細な事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。

「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。

「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙のような濃い煙をぱっと口から吐いた。

 ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。

「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」

「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」

 松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。

「御伴がおありのようでしたが」

「ええ別嬪を一人伴れていました。あなたはたしか一人でしたね」

「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」

「そうです」

 ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。

「本郷です」

 松本は腑に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし怒られたら、詫まるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀を叮嚀にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。

「実はあなたの後を跟けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。

「何のために」と松本はほとんどいつものような緩い口調で聞き返した。

「人から頼まれたのです」

「頼まれた? 誰に」

 松本は始めて、少し驚いた声の中に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。