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彼岸過迄 第十三章

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彼岸過迄 第十三章

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夏目漱石

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「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売だと云う勇気が出悪くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」

 こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて呑み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った文でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎を散らつかせながら、後を追かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。

「御嬢さんは何でまたあすこまで出張っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」

「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮に指環を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、逃さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒だね。わざわざそれほどの手数をかけて、何もそんな下らない真似をするにも当らないじゃないか。騙された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」

 敬太郎には騙された自分の方が遥かに愚物に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、自から赧い顔もしなければならなかった。

「あなたはまるで御承知ない事なんですね」

「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」

「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」

「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切した口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を掻きそうな際どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗に始末をつける。そこへ行くと箆棒には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣でも、結末には妙に温かい情の籠った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で呑み込んでいるだけでしょう。君が僕の家へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略を、始めから吹聴するほど無慈悲な男じゃない。だからついでに悪戯も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」

 田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞を顧みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の裏で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も自ずと萌さない訳に行かなかった。

「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの方の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」

「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」