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彼岸過迄 第三章
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夏目漱石
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そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの華やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴の紋のついた陣太鼓のようなものを持って来て、宵子さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着のような恰好をした赤い毛織の足袋が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の紐の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が編んでやったのだったね」
「ええ可愛らしいわね」
千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主になった梧桐をしたたか濡らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越の雨の色を眺めて、手焙に手を翳した。
「芭蕉があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花が散って、青桐が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三は閑人だって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
二人がこんな話をしていると、ただいまこの方が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭よまたこないだみたいに、西洋煙草の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点っていた。台所ではすでに夕飯の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪が二つとも忙がしく青いを吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小さい朱塗の椀と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家のものの着更をするために多く用いられる室なので、箪笥が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据えてあった。千代子はその姿見の前に玩具のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠さま」
千代子が粥を一匙ずつ掬って口へ入れてやるたびに、宵子は旨しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念に匙の持ち方を教えた。宵子は固より極めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供のような平たい頭を傾げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝の前に俯伏になった。
「どうしたの」
千代子は何の気もつかずに宵子を抱き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。