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彼岸過迄 第三章
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夏目漱石
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須永の話は敬太郎の予期したよりも遥かに長かった。――
僕の父は早く死んだ。僕がまだ親子の情愛をよく解しない子供の頃に突然死んでしまった。僕は子がないから、自分の血を分けた温たかい肉の塊りに対する情は、今でも比較的薄いかも知れないが、自分を生んでくれた親を懐かしいと思う心はその後だいぶ発達した。今の心をその時分持っていたならと考える事も稀ではない。一言でいうと、当時の僕は父にははなはだ冷淡だったのである。もっとも父もけっして甘い方ではなかった。今の僕の胸に映る彼の顔は、骨の高い血色の勝れない、親しみの薄い、厳格な表情に充ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の裏に見るたんびに、それが胸の中に収めた父の容貌と大変似ているのを思い出しては不愉快になる。自分が父と同じ厭な印象を、傍の人に与えはしまいかと苦に病んで、そこで気が引けるばかりではない。こんな陰欝な眉や額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底には自分以上に熱い涙を貯えていたのではなかろうかと考えると、父の記念として、彼の悪い上皮だけを覚えているのが、子としていかにも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」と云った。僕は生れた時から母の厄介になっていたのだから、今更改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思った。黙って坐っていると、父は骨ばかりになった顔の筋を無理に動かすようにして、「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。僕は母が今まで構ってくれたんだからこのままの僕でたくさんだという気が充分あった。それで父の小言をまるで必要のない余計な事のように考えて病室を出た。
父が死んだ時母は非常に泣いた。葬式が出る間際になって、僕は着物を着換えさせられたまま、手持無沙汰だから、一人縁側へ出て、蒼い空を覗き込むように眺めていると、白無垢を着た母が何を思ったか不意にそこへ出て来た。田口や松本を始め、供に立つものはみんな向の方で混雑していたので、傍には誰も見えなかった。母は突然自分の坊主頭へ手を載せて、泣き腫らした眼を自分の上に据えた。そうして小さい声で、「御父さんが御亡くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛がって上げるから安心なさいよ」と云った。僕は何とも答えなかった。涙も落さなかった。その時はそれですんだが、両親に対する僕の記憶を、生長の後に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその後しだいしだいに強く明らかになって来た。何の意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった。時々は母に向って直に問い糺して見たい気も起ったが、母の顔を見ると急に勇気が摧けてしまうのが例であった。そうして心の中のどこかで、それを打ち明けたが最後、親しい母子が離れ離れになって、永久今の睦ましさに戻る機会はないと僕に耳語くものが出て来た。それでなくても、母は僕の真面目な顔を見守って、そんな事があったっけかねと笑いに紛らしそうなので、そう剥ぐらかされた時の残酷な結果を予想すると、とても口へ出された義理じゃないと思い直しては黙っていた。
僕は母に対してけっして柔順な息子ではなかった。父の死ぬ前に枕元へ呼びつけられて意見されただけあって、小さいうちからよく母に逆らった。大きくなって、女親だけになおさら優しくしてやりたいという分別ができた後でも、やっぱり彼女の云う通りにはならなかった。この二三年はことに心配ばかりかけていた。が、いくら勝手を云い合っても、母子は生れて以来の母子で、この貴とい観念を傷つけられた覚は、重手にしろ浅手にしろ、まだ経験した試しがないという考えから、もしあの事を云い出して、二人共後悔の瘢痕を遺さなければすまない瘡を受けたなら、それこそ取返しのつかない不幸だと思っていた。この畏怖の念は神経質に生れた僕の頭で拵らえるのかも知れないとも疑って見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来として存在している事が多かった。だから僕はあの時の父と母の言葉を、それなり忘れてしまう事ができなかったのを、今でも情なく感ずるのである。