← 作品

彼岸過迄 第十四章

title

彼岸過迄 第十四章

author

夏目漱石

body

 母は内気な性分なので平生から余り旅行を好まなかった。昔風に重きをおかなければ承知しない厳格な父の生きている頃は外へもそうたびたびは出られない様子であった。現に僕は父と母が娯楽の目的をもっていっしょに家を留守にした例を覚えていない。父が死んで自由が利くようになってからも、そう勝手な時に好きな所へ行く機会は不幸にして僕の母には与えられなかった。一人で遠くへ行ったり、長く宅を空けたりする便宜を有たない彼女は、母子二人の家庭にこうして幾年を老いたのである。

 鎌倉へ行こうと思い立った日、僕は彼女のために一個の鞄を携えて直行の汽車に乗った。母は車の動き出す時、隣に腰をかけた僕に、汽車も久しぶりだねと笑いながら云った。そう云われた僕にも実は余り頻繁な経験ではなかった。新らしい気分に誘われた二人の会話は平生よりは生々していた。何を話したか自分にもいっこう覚えのない事を、聞いたり聞かれたりして断続に任せているうちに車は目的地に着いた。あらかじめ通知をしてないので停車場には誰も迎に来ていなかったが、車を雇うとき某さんの別荘と注意したら、車夫はすぐ心得て引き出した。僕はしばらく見ないうちに、急に新らしい家の多くなった砂道を通りながら、松の間から遠くに見える畠中の黄色い花を美くしく眺めた。それはちょっと見るとまるで菜種の花と同じ趣を具えた目新らしいものであった。僕は車の上で、このちらちらする色は何だろうと考え抜いた揚句、突然唐茄子だと気がついたので独りおかしがった。

 車が別荘の門に着いた時、戸障子を取り外した座敷の中に動く人の影が往来からよく見えた。僕はそのうちに白い浴衣を着た男のいるのを見て、多分叔父が昨日あたり東京から来て泊ってるのだろうと思った。ところが奥にいるものがことごとく僕らを迎えるために玄関へ出て来たのに、その男だけは少しも顔を見せなかった。もちろん叔父ならそのくらいの事はあるべきはずだと思って、座敷へ通って見ると、そこにも彼の姿は見えなかった。僕はきょろきょろしているうちに、叔母と母が汽車の中はさぞ暑かったろうとか、見晴しの好い所が手に入って結構だとか、年寄の女だけに口数の多い挨拶のやりとりを始めた。千代子と百代子は母のために浴衣を勧めたり、脱ぎ捨てた着物を晒干してくれたりした。僕は下女に風呂場へ案内して貰って、水で顔と頭を洗った。海岸からはだいぶ道程のある山手だけれども水は存外悪かった。手拭を絞って金盥の底を見ていると、たちまち砂のような滓が澱んだ。

「これを御使いなさい」という千代子の声が突然後でした。振り返ると、乾いた白いタオルが肩の所に出ていた。僕はタオルを受取って立ち上った。千代子はまた傍にある鏡台の抽出から櫛を出してくれた。僕が鏡の前に坐って髪を解かしている間、彼女は風呂場の入口の柱に身体を持たして、僕の濡れた頭を眺めていたが、僕が何も云わないので、向うから「悪い水でしょう」と聞いた。僕は鏡の中を見たなり、どうしてこんな色が着いているのだろうと云った。水の問答が済んだとき、僕は櫛を鏡台の上に置いて、タオルを肩にかけたまま立ち上った。千代子は僕より先に柱を離れて座敷の方へ行こうとした。僕は藪から棒に後から彼女の名を呼んで、叔父はどこにいるかと尋ねた。彼女は立ち止まって振り返った。

「御父さんは四五日前ちょっといらしったけど、一昨日また用が出来たって東京へ御帰りになったぎりよ」

「ここにゃいないのかい」

「ええ。なぜ。ことによると今日の夕方吾一さんを連れて、またいらっしゃるかも知れないけども」

 千代子は明日もし天気が好ければ皆と魚を漁りに行くはずになっているのだから、田口が都合して今日の夕方までに来てくれなければ困るのだと話した。そうして僕にも是非いっしょに行けと勧めた。僕は魚の事よりも先刻見た浴衣がけの男の居所が知りたかった。