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彼岸過迄 第十七章
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夏目漱石
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僕は男として嫉の強い方か弱い方か自分にもよく解らない。競争者のない一人息子としてむしろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉を起す機会を有たなかった。小学や中学は自分より成績の好い生徒が幸いにしてそう無かったためか、至極太平に通り抜けたように思う。高等学校から大学へかけては、席次にさほど重きをおかないのが、一般の習慣であった上、年ごとに自分を高く見積る見識というものが加わって来るので、点数の多少は大した苦にならなかった。これらをほかにして、僕はまだ痛切な恋に落ちた経験がない。一人の女を二人で争った覚はなおさらない。自白すると僕は若い女ことに美くしい若い女に対しては、普通以上に精密な注意を払い得る男なのである。往来を歩いて綺麗な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。会にはその所有者になって見たいと云う考も起る。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、酔が去って急にぞっとする人のあさましさを覚える。僕をして執念く美くしい人に附纏わらせないものは、まさにこの酒に棄てられた淋しみの障害に過ぎない。僕はこの気分に乗り移られるたびに、若い時分が突然老人か坊主に変ったのではあるまいかと思って、非常な不愉快に陥る。が、あるいはそれがために恋の嫉というものを知らずにすます事が出来たかも知れない。
僕は普通の人間でありたいという希望を有っているから、嫉心のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話したような訳で、眼の当りにこの高木という男を見るまでは、そういう名のつく感情に強く心を奪われた試がなかったのである。僕はその時高木から受けた名状しがたい不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が源因で、この嫉心が燃え出したのだと思った時、僕はどうしても僕の嫉心を抑えつけなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。僕は存在の権利を失った嫉心を抱いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた。幸い千代子と百代子が日が薄くなったから海へ行くと云い出したので、高木が必ず彼らに跟いて行くに違ないと思った僕は、早く跡に一人残りたいと願った。彼らははたして高木を誘った。ところが意外にも彼は何とか言訳を拵えて容易に立とうとしなかった。僕はそれを僕に対する遠慮だろうと推察して、ますます眉を暗くした。彼らは次に僕を誘った。僕は固より応じなかった。高木の面前から一刻も早く逃れる機会は、与えられないでも手を出して奪いたいくらいに思っていたのだが、今の気分では二人と浜辺まで行く努力がすでに厭であった。母は失望したような顔をして、いっしょに行っておいでなと云った。僕は黙って遠くの海の上を眺めていた。姉妹は笑いながら立ち上った。
「相変らず偏窟ねあなたは。まるで腕白小僧見たいだわ」
千代子にこう罵しられた僕は、実際誰の目にも立派な腕白小僧として見えたろう。僕自身も腕白小僧らしい思いをした。調子の好い高木は縁側へ出て、二人のために菅笠のように大きな麦藁帽を取ってやって、行っていらっしゃいと挨拶をした。
二人の後姿が別荘の門を出た後で、高木はなおしばらく年寄を相手に話していた。こうやって避暑に来ていると気楽で好いが、どうして日を送るかが大問題になってかえって苦痛になるなどと、実際活気に充ちた身体を暑さと退屈さに持ち扱かっている風に見えた。やがて、これから晩まで何をして暮らそうかしらと独言のように云って、不意に思い出したごとく、玉はどうですと僕に聞いた。幸いにして僕は生れてからまだ玉突という遊戯を試みた事がなかったのですぐ断った。高木はちょうど好い相手ができたと思ったのに残念だと云いながら帰って行った。僕は活溌に動く彼の後影を見送って、彼はこれから姉妹のいる浜辺の方へ行くに違いないという気がした。けれども僕は坐っている席を動かなかった。