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彼岸過迄 第二十章
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夏目漱石
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翌日眼が覚めると、隣に寝ていた吾一の姿がいつの間にかもう見えなくなっていた。僕は寝足らない頭を枕の上に着けて、夢とも思索とも名のつかない路を辿りながら、時々別種の人間を偸み見るような好奇心をもって、叔父の寝顔を眺めた。そうして僕も寝ている時は、傍から見ると、やはりこう苦がない顔をしているのだろうかと考えなどした。そこへ吾一が這入って来て、市さんどうだろう天気はと相談した。ちょっと起きて見ろと促がすので、起き上って縁側へ出ると、海の方には一面に柔かい靄の幕がかかって、近い岬の木立さえ常の色には見えなかった。降ってるのかねと僕は聞いた。吾一はすぐ庭先へ飛び下りて、空を眺め出したが、少し降ってると答えた。
彼は今日の船遊びの中止を深く気遣うもののごとく、二人の姉まで縁側へ引張出して、しきりにどうだろうどうだろうをくり返した。しまいに最後の審判者たる彼の父の意見を必要と認めたものか、まだ寝ている叔父をとうとう呼び起した。叔父は天気などはどうでも好いと云ったような眠たい眼をして、空と海を一応見渡した上、なにこの模様なら今にきっと晴れるよと云った。吾一はそれで安心したらしかったが、千代子は当にならない無責任な天気予報だから心配だと云って僕の顔を見た。僕は何とも云えなかった。叔父は、なに大丈夫大丈夫と受合って風呂場の方へ行った。
食事を済ます頃から霧のような雨が降り出した。それでも風がないので、海の上は平生よりもかえって穏やかに見えた。あいにくな天気なので人の好い母はみんなに気の毒がった。叔母は今にきっと本降になるから今日は止したが好かろうと注意した。けれども若いものはことごとく行く方を主張した。叔父はじゃ御婆さんだけ残して、若いものが揃って出かける事にしようと云った。すると叔母が、では御爺さんはどっちになさるのとわざと叔父に聞いて、みんなを笑わした。
「今日はこれでも若いものの部だよ」
叔父はこの言葉を証拠立てるためだか何だか、さっそく立って浴衣の尻を端折って下へ降りた。姉弟三人もそのままの姿で縁から降りた。
「御前達も尻を捲るが好い」
「厭な事」
僕は山賊のような毛脛を露出しにした叔父と、静御前の笠に似た恰好の麦藁帽を被った女二人と、黒い兵児帯をこま結びにした弟を、縁の上から見下して、全く都離れのした不思議な団体のごとく眺めた。
「市さんがまた何か悪口を云おうと思って見ている」と百代子が薄笑いをしながら僕の顔を見た。
「早く降りていらっしゃい」と千代子が叱るように云った。
「市さんに悪い下駄を貸して上げるが好い」と叔父が注意した。
僕は一も二もなく降りたが、約束のある高木が来ないので、それがまた一つの問題になった。おおかたこの天気だから見合わしているのだろうと云うのが、みんなの意見なので、僕らがそろそろ歩いて行く間に、吾一が馳足で迎に行って連れて来る事にした。
叔父は例の調子でしきりに僕に話しかけた。僕も相手になって歩調を合せた。そのうちに、男の足だものだから、いつの間にか姉妹を乗り越した。僕は一度振り返って見たが、二人は後れた事にいっこう頓着しない様子で、毫も追いつこうとする努力を示さなかった。僕にはそれがわざと後から来る高木を待ち合せるためのようにしか取れなかった。それは誘った人に対する礼儀として、彼らの取るべき当然の所作だったのだろう。しかしその時の僕にはそう思えなかった。そう思う余地があっても、そうは感ぜられなかった。早く来いという合図をしようという考で振り向いた僕は、合図を止めてまた叔父と歩き出した。そうしてそのまま小坪へ這入る入口の岬の所まで来た。そこは海へ出張った山の裾を、人の通れるだけの狭い幅に削って、ぐるりと向う側へ廻り込まれるようにした坂道であった。叔父は一番高い坂の角まで来てとまった。