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明暗 第百章

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明暗 第百章

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夏目漱石

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 しかし二人はもう因果づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼る金の工面、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。

「お秀病院で飯を食って行かないか」

 時間がちょうどこんな愛嬌をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。

「どうせ家へ帰ったって用はないんだろう」

 お秀は津田のいう通りにした。話は容易く二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足にならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へ潜り込もうとして機会を待った。

「兄さん、あたしここに持っていますよ」

「何を」

「兄さんの入用のものを」

「そうかい」

 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦らす事に帰着した。

「あげましょうか」

「ふん」

「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」

「ことによると、くれないかも知れないね」

「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」

「そりゃ知ってるよ。先刻もうお前から聞いたじゃないか」

「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」

「僕を焦らすためにかい、または僕にくれるためにかい」

 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜めた。津田にはそれが口惜涙としか思えなかった。

「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」

「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」

 今度は呆れた表情がお秀の顔にあらわれた。

「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」

「そんな事は他に訊かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」

「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」

 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得か、またはくしゃりと一度に押し潰した方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼は徐ろに口を開いた。

「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」

「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」

「だからそれでいいよ」

「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」

「そりゃ……」

 津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し間をおいた。それからすぐ押し返した。

「兄さんのお腹の中には、あたしが京都へ告口をしたという事が始終あるんでしょう」

「そんな事はどうでもいいよ」

「いいえ、それできっとあたしを眼の敵にしていらっしゃるんです」

「誰が」

 不幸な言葉は二人の間に伏字のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明のように兄の眼先に振り廻した。

「兄さんこそ違ったのです。嫂さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」