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明暗 第百三章
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夏目漱石
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彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉を開けて内へ入る事ができたのである。
実際彼女は三四日前に来た時のように、編上だの畳つきだのという雑然たる穿物を、一足も沓脱の上に見出さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲は寂寞していた。
彼女はその森とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃えられたただ一足の女下駄を認めた。価段から云っても看護婦などの穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。
右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段の下まで来た。そうして上を見上げた。
上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣を異にしていた。そこには強い感情があった。亢奮があった。しかもそれを抑えつけようとする努力の痕がありありと聞こえた。他聞を憚かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上ってすぐ取つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当、すなわち彼女の後の方から洩れて来るのであった。
彼女はそっと階子段を上った。柔婉な体格をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効をもって酬いられた。
上り口の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄が拵えてあった。お延はそれに倚って、津田の様子を窺った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入った。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。みごとに予期の外れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩をしていた。その喧嘩の渦中には、知らない間に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主な原因かも分らなかった。
しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味している閑などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立んでいる彼女の耳朶を叩きに来るだけであった。
彼女は事件が分明になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震わせた。際立って明暸に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻から一言葉ごとに一調子ずつ高まって来た二人の遣取は、ここで絶頂に達したものと見傚すよりほかに途はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁を防ぐ緩和剤として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
彼女は兄妹の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際が要った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際どい刹那に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖を開けた。