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明暗 第百六章

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明暗 第百六章

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夏目漱石

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「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂に対して何とか説明しなければならない位地に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々しいまたずうずうしい女はなかった。

「ええ良人は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。

「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」

「いったい何が強情なんだ」

「そりゃあたしにもよく解らないけれども」

「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」

「そうね」

「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」

「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目がなければ仕方がありませんからね」

「じゃどこが強情なんだ」

「どこがってお聴きになっても駄目よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」

「馬鹿」

 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。

「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです」

「素直にも義剛にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」

「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」

「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」

「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭ですもの」

「じゃどうすればいいんだ」

「解ってるじゃありませんか」

 三人はしばらく黙っていた。

 突然津田が云い出した。

「お延お前お秀に詫まったらどうだ」

 お延は呆れたように夫を見た。

「なんで」

「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡では」

「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」

 お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後を遮った。

「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂さんに詫まって貰いたいと云いました。そんな言がかりを捏造されては、あたしが嫂さんに対して面目なくなるだけじゃありませんか」

 沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。

「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」

 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。

「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」

「あたしにはどっちだって同なじ事です」

「そうかい。そんなら仕方がない。それで」

「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日嫂さんから電話がかかった時、すぐ来ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅に用があったし、午からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」

 お延はなお黙っている津田の顔を覗き込んだ。

「あなた何とかおっしゃいよ」

「何て」

「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」

「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭だよ」

「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩さなかった。

「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」

 お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。