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明暗 第百八章

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明暗 第百八章

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夏目漱石

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 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中で祈ったのである。会心の微笑を洩らしながら首肯ずいて、それを鷹揚に枕元へ放り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。

 不幸にして津田にはお延の所作も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣を異にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊いた。

「こりゃいったいどうしたんだい」

 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨めしく摧いた。彼女の予期は外れた。

「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」

 こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目くさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露するに過ぎなかった。

「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解る事なんだから」

 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。

「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」

 津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。

 彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲の下るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。

 先刻から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐から綺麗な女持の紙入を出した。

「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」

 彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。

「こうしておけばそれでいいでしょう」

 津田に話しかけたお秀は暗にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。

「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」

「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」

 二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強くいつまでもそれを聴いていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。

「兄さん取っといて下さい」

「あなたいただいてもよくって」

 津田はにやにやと笑った。

「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」

 お秀は屹となった。

「どっちも本当です」

 この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒を挫いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴くよりほかに途がなかった。二人は惹きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝いて出た。