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明暗 第百十二章

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明暗 第百十二章

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夏目漱石

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 久しぶりに夫と直に向き合ったような気のしたお延は嬉しかった。二人の間にいつの間にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々しい心持になった。

 彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬いられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻は、取も直さず彼女にとって復活の曙光であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色の空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍い瞬きを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退いた。少くともさほど苦にならなかった。耳に入れた刹那に起った昂奮の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。

「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」

 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。

「相手? どんな相手ですか」と訊かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気に薄墨で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾が、ああまで際どくならずにすんだなら、お延は行がかり上、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探らなければならない順序だったのである。

 お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛くて耐らないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩き込んでおく方が得策だと思案した。

 こう決心するや否や彼女は嘘を吐いた。それは些細の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。

 その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。

「お延ありがとう。お蔭で助かったよ」

 お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随いて、すぐ彼女の口を滑って出てしまった。

「昨日岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰うためなのよ」

 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経たないうちに、どこからそんな好意が急に湧いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。

「そりゃ厭なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」

「叔父さんに訳を話したのかい」

「ええ、そりゃずいぶん辛かったの」

 お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵えて貰っていた。

「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日までして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」

 自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑み込めた。

「よくできたね」

「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪いだけよ」

「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃っているからな」

 津田はかえって自尊心を傷けられたような顔つきをした。お延はそれを取り繕ろうように云った。

「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間からそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」

 津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。