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明暗 第百十五章

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明暗 第百十五章

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夏目漱石

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 下から上って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。

「まだ創口の方はそっとしておかないと、危険ですから」

 彼はこう注意して、じかに局部を抑えつけている個所を少し緩めて見たら、血が煮染み出したという話を用心のためにして聴かせた。

 取り易えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥がすと、血が迸しるかも知れないという身体では、津田も無理をして宅へ帰る訳に行かなかった。

「やッぱり予定通りの日数は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」

 医者は気の毒そうな顔をした。

「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」

 それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。

「別に大した用事がお有になる訳でもないんでしょう」

「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」

「はあ。――しかしもう直です。もう少しの辛防です」

 これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込み合わないためか、そこへ坐って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑をかけて、是非その看護婦を殴らせろと、医局へ逼った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽であった。こういう性質の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪られた。そうしてその裏側へ暗に自分の長所を点綴して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。

 医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。

 彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。

 彼はお延の置いて行った書物の中から、その一冊を抽いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯ずかせるような趣がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応えなかった。頭にさえ呑み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下のようなのが彼の眼に触れた。

「娘の父が青年に向って、あなたは私の娘を愛しておいでなのですかと訊いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐かしい眼で、優しい眼遣いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉って、実を云うと、私も少し嘘を吐く性分だが、私の家のような少人数な家族に、嘘付が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」

 嘘吐という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然とした人世観の下に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。

「愛と虚偽」

 自分の読んだ一口噺からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。