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明暗 第百十七章

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明暗 第百十七章

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夏目漱石

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 津田が小林に本音を吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽くまで素直に、飽くまで閑雅な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜だときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日どんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊く暇もないうちに、時間が経ってしまったのだから、事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それを聴かないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。すでにお延の方を諦らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所を、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。

 小林は何だかそこを承知しているらしかった。

「なに何にも云やしないよ。嘘だと思うなら、もう一遍お延さんに訊いて見たまえ。もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫まって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」

 彼はこう云って嘯いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。

「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑した口調で津田に訊いた。彼はぞんざいに頁を剥繰りながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうしてそこに岡本という小さい見留印を見出した時、彼は「ふん」と云った。

「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」

「そんな事は知らないよ」

「知らないはずはあるまい。だってお延さんの里じゃないか」

「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」

「そうか」

 この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。

「岡本はお延の叔父だぜ、君知らないのか。里でも何でもありゃしないよ」

「そうか」

 小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。

「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」

 小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他の財産まで苦になってしようがない」

 津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。

「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」

 こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。

「少し借りてやろうか」

「借りるのは厭だ。貰うなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」

 津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。

「時にいつ立つんだね」

「まだしっかり判らない」

「しかし立つ事は立つのかい」

「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」

「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」

 今日小林から充分な事が聴けなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗に作り上げた。