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明暗 第百十八章

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明暗 第百十八章

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夏目漱石

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 故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿わった。それがまた津田の訊こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅くもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振られるような気もした。

「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。

 津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。

「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」

「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」

「何を云ってるんだ」

 津田はついその後へ馬鹿野郎と付け足したかった。

「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」

 吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を貼りつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。

「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」

「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」

「そうか」

 小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目くさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅やかされるような気がした。

「しかし君は僕などと違って聡明だからいい。他はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」

「他とは誰の事だい」

「先生でも奥さんでもさ」

 藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当がついていた。

「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」

「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」

「君が正直で僕が偽物なのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」

「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」

 津田の頭に妙な暗示が閃めかされた。

「君旅費はもうできたのか」

「旅費はどうでもできるつもりだがね」

「社の方で出してくれる事にきまったのかい」

「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」

「そうか。そりゃ好い具合だ」

「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」

 こういう彼は、平気で自分の妹のお金さんを藤井に片づけて貰う男であった。

「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」

 津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。

「君どこかに強奪る所はないかね」

「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。

「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」

「ないよ。近頃は不景気だから」

「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」

「馬鹿云うな」

 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後の彼の財布は空と同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫も認めなかった。

 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。

 その朝藤井へ行った彼は、そこで例もするように昼飯の馳走になって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子が開いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出したのである。

 小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。