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明暗 第百二十一章
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夏目漱石
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津田の頭に二つのものが相継いで閃めいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨く取扱わなければならないという事前の暗示であった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答ぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注ぎ込まれた後の夫人と、まだ反感を煽られない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場の会見で、充分引繰り返して見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
残る一つの閃めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜を彼に教えた。先刻までの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設けていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。
附帯条件として、小林を早く追払う手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色をどこにも現わさなかった。彼は他の邪魔になる自分を苦にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確と他に与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。
津田は欠伸をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作が彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑になって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
冗談じゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際った例もない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
「見世物じゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑だからね」
津田は呆れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気だね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
津田は最後の引導を渡すよりほかに途がなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
小林は別に怒った様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承ってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套のように留守へ取りに行かれちゃ困る」
小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴く事の残っている津田は、出立前もう一遍彼に会っておく方が便宜であった。けれども彼とお延と落ち合う掛念のある病院では都合が悪かった。津田は送別会という名の下に、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者を退去させた。