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明暗 第百二十二章

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明暗 第百二十二章

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夏目漱石

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 津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取り除けて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下した手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気の急いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。

「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅までやって下さい」

 看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。

「電車で行くようにして下さい」

 彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。

 二階へ帰って来た後でも、彼はそればかりが苦になった。そう思うと、お延がもう宅を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿を見送った津田は、それでももう少しで刻下の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。

 津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。

 手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛の苗字を小綺麗な二階建の一軒の門札に見出した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。

 ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後には、書面を認める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。

 しかし津田の懸念したように、宅にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際どい機会を旨く利用しようとする敏捷な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。

 その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽な午前を過ごした。午飯を食べた後で、彼女は洗湯に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入に時間を費やした後、晴々した好い心持を湯上りの光沢しい皮膚に包みながら帰って来ると、お時から嘘ではないかと思われるような報告を聴いた。

「堀の奥さんがいらっしゃいました」

 お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日の今日、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通り路だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。

 お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥いる痕迹なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後を追かけるようにして宅を出た。