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明暗 第百二十四章
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夏目漱石
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昨日孫を伴れて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。見方によって、好い都合にもなり、また悪い跋にもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追い除けてくれたと同時に、ただ一人面と向き合って、当の敵のお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。いつもなら何をおいても小さな髷に結った母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭にお秀が顔を出したばかりか、待ち設けた老女はその後からも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまず外させられた。その時彼女はお秀を一目見た眼の中に、当惑の色を示した。しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日の戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。どんな敵を打たれるかも知れないという微かな恐怖であった。この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。
お延はこの一瞥をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥が突如として閃めいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。
一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫して傍の人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。大なり小なり次の波瀾が呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。
だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌の好い挨拶をした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜りなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧いて起った。
けれども肝心なその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸な行き違についても、ついに一言も口を利く様子を見せなかった。
相手に心得があってわざと際どい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。と云って、どこかで区切を付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。
怜悧なお延は弱らせられた。会話が滑らかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡げて来た。しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側を覗いて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やり損なった暁に、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。そこを敲かせて貰って局部から自然に出る本音を充分に聴く事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和の役目をやり終せて帰るよりも遥かに重大な用向であった。
津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。そうして津田が自分のいない留守に、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかを確と突きとめたかったのである。
どこに引かかりを拵えたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時すでに、「先刻いらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切に使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗にお延を跳ねつけてしまった。