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明暗 第百二十七章
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夏目漱石
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「そう云われると、何と云っていいか解らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
お秀の器量望みで貰われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨やましい事実に違なかった。始めて津田からその話を聴かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑であった。それを表向さも嬉しい消息ででもあるように取扱かって、彼我に共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄であった。
幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本に愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏という諺がまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中へしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目に受けるほど無邪気だったのである。
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱な言葉を通して、鋭どいお延からよく見透かされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々しい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」
この挨拶は平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかに途はなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」
こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環が遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥は何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日と毫も変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
他に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶をついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹をお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧って、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭だった。したがって応対に非常な呼吸が要った。目的地へ漕ぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。