← 作品

明暗 第百二十九章

title

明暗 第百二十九章

author

夏目漱石

body

 とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝いて出る嘘を抑える事ができなかった。

「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」

 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊き返した。

「あら何を」

「その事よ」

「その事って、どんな事なの」

 お延にはもう後がなかった。お秀には先があった。

「嘘でしょう」

「嘘じゃないのよ。津田の事よ」

 お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩深田の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救を求めていたかも知れなかった。お秀は云った。

「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」

「でも本当よ、秀子さん」

 お秀は始めて声を出して笑った。

「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」

「津田の事よ」

「だから兄の何よ」

「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」

「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当がつかないんですもの」

 お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の腋の下から膏汗が流れた。彼女は突然飛びかかった。

「秀子さん、あなたは基督教信者じゃありませんか」

 お秀は驚ろいた様子を現わした。

「いいえ」

「でなければ、昨日のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」

 昨日と今日の二人は、まるで地位を易えたような形勢に陥った。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。

「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌いなんでしょう」

「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高い心持になって、この小さいお延を憐れんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫まるから」

 お延は光る宝石入の指輪を穿めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。

「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」

 持前の癖を見せて、眉を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝の上へ落ちた。

「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために万ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよく解ります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」

 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は赧くなる代りに少し蒼白くなった。そうして度外れに急き込んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉遣いをした。

「あたしはまだ何にも悪い事をした覚はないんです。兄さんに対しても嫂さんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」