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明暗 第百三十章

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明暗 第百三十章

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夏目漱石

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 お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇を衝こうとした。三度目の嘘が安々と彼女の口を滑って出た。

「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お厭?」

 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌をその細い眼に湛えて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作は全く外れた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾な質問をかけた。

「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」

「いいえ」

「じゃどこか外から廻っていらしったの」

「いいえ。宅からすぐ上ったの」

 お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋りついた手を放さなかった。

「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」

 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷な光が射した。

「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分独り精一杯愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」

「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」

「良人を御覧なさい」

 お秀はすぐこう云って退けた。お延は話頭からわざと堀を追い除けた。

「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云いっ競よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」

「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」

 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。

「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」

「そう、どこにそんな好い人がいるの」

 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。

「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」

 お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地は顛倒した。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。

「いくら理想だってそりゃ駄目よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」

「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯経ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」

「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」

 お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。

「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」

「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」

「枯草でいいと思いますわ」

「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」

「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」

 お秀の顔に軽蔑の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透かされた。お延はむらむらとした。

「あたしはどうせ馬鹿だから理窟なんか解らないのよ」

「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」

 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太を踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。