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明暗 第百三十一章

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明暗 第百三十一章

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夏目漱石

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 お延とお秀が対坐して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。

 津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延宛で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後であった。

 彼は看護婦の口から夫人の名前を聴いた時、この異人種に近い二人が、狭い室で鉢合せをしずにすんだ好都合を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。

 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃えて並んでいる下に、恰好の好い手頃な石さえあしらったその盆栽が床の間の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。

「どうです」

 先刻から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、暗に心配していた彼の掛念の半分は、この一語で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほど上っ調子でもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他から機嫌を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉つらなければならない地位にあった。漢語でいうと彼女の一顰一笑が津田にはことごとく問題になった。この際の彼にはことにそうであった。

「今朝秀子さんがいらしってね」

 お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は固より相手に応じなければならなかった。そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭だったからである。

「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰をしているので、たまにはお詫に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」

「いえそうじゃないの」

 津田は夫人の言葉を聴いた後で、すぐ次の嘘を出した。

「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」

「ところがあったんです」

「へええ」

 津田はこう云ったなりその後を待った。

「何の用だかあてて御覧なさい」

 津田は空っ惚けて、考える真似をした。

「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」

「分りませんか」

「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹でいながら、だいぶん質が違いますから」

 津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄めかした。それは事の来る前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。

「少し理窟ッぽいのね」

 この一語を聞くや否や、津田は得たり賢こしと虚につけ込んだ。

「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴いていられたものじゃございません。だから私はあいつと喧嘩をすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」

 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当を向いて出た。

「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方は好よ」

 津田は苦笑した。

「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」

「いえ正直よ、秀子さんの方が」

 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。