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明暗 第百三十三章
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夏目漱石
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怜俐な性分に似合わず夫人対お延の関係は津田によく呑み込めていなかった。夫人に津田の手前があるように、お延にも津田におく気兼があったので、それが真向に双方を了解できる聡明な彼の頭を曇らせる原因になった。女の挨拶に相当の割引をして見る彼も、そこにはつい気がつかなかったため、彼は自分の前でする夫人のお延評を真に受けると同時に、自分の耳に聴こえるお延の夫人評もまた疑がわなかった。そうしてその評は双方共に美くしいものであった。
二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力めて来た微妙な軋轢が、必然の要求に逼られて、しだいしだいに晴れ渡る靄のように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。
津田は夫人に向って云った。
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」
世間という仰山な言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」
津田にはそのみんなさえ明暸に意識する事ができなかった。しかし世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、けっして推察に困難なものではなかった。彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩き込もうとするつもりらしかった。津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論そのうちの一人よ」
「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」
津田は再び大きな声を出して笑った。しかし笑った後ですぐ気がついた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。文句を云わずに伏罪する事の便宜を悟った彼は、たちまち容ちを改ためた。
「とにかくこれからよく気をつけます」
しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、同なじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい」
「はあそうですか」
藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。しかし腹の中では同時に妙な思わく違に想いいたった。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」
この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」
夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉まで出かかった。
実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通り、お延を大事にするのではなかった。誤解交りのこの評判が、どこからどうして起ったかを、他に説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数がかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰な観念があって、それを一々掌に指す事のできるほどに、事実の縞柄は解っていた。
第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚からないものは彼女に違なかった。第二の責任者はお秀であった。すでに一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬が手伝って染めた。その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑という意味を悟った彼は、せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。ここには誇張も嫉妬もない代りに、浮華に対する嫌悪があまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。