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明暗 第百三十七章
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夏目漱石
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どんな注文が夫人の口から出るか見当のつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦す人ではなかった。永久夫人の前に赦されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸と一般であった。用心深い彼は生還の望の確としない危地に入り込む勇気をもたなかった。
その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴れた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。云えばたいていの事は通った。たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明暸に解剖して見る必要に逼られない彼女の余裕であった。余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。他の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私もないものと、てんからきめてかかる彼女に、不安の来るはずはなかった。自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒り廻ったので、埒はますます開かなかった。彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくできる事なんです。そうして結果はあなたの得になるだけなんです」
「そんなに雑作なくできるんですか」
「ええまあ笑談みたいなものです。ごくごく大袈裟に云ったところで、面白半分の悪戯よ。だから思い切ってやるとおっしゃい」
津田にはすべてが謎であった。けれどもたかが悪戯ならという気がようやく彼の腹に起った。彼はついに決心した。
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」
しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を掴んだ後で、また話題を変えた。ところがそれは、あらゆる意味で悪戯とは全くかけ離れたものであった。少くとも津田には重大な関係をもっていた。
夫人は下のような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「あなたはその後清子さんにお会いになって」
「いいえ」
津田の少し吃驚したのは、ただ問題の唐突なばかりではなかった。不意に自分をふり棄てた女の名が、逃がした責任を半分背負っている夫人の口から急に洩れたからである。夫人は語を継いだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくっていいの」
「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の御披露の時にあなたはおいでになったんでしたかね」
「行きません。行こうたってちょっと行き悪いですからね」
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっきりなのね、両方共」
「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」
「そうね。しかし問題にも寄り切りでしょう」
津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」
津田は塞えた。小林を研究し尽した上でなければ確とした返事は与えられなかった。夫人は再び訊き直した。
「あなたが自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも聴かされちゃいません」
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇づいているところがあるの」
「そうですね」
津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。