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明暗 第百三十九章

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明暗 第百三十九章

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夏目漱石

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 夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑えたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合に一段落をつけたように夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。彼女は思ったより細緻な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券を、いったん勝った後で彼に示した。

「ただ未練未練って、雲を掴むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練をこんなものだといって他に説明する事ができるつもりでいるんですよ」

 津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。

「ちょっと説明して見て下さいませんか」

「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」

「ええ構いません」

 夫人は笑い出した。

「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰うなんてえのは馬鹿気ているじゃありませんか」

 はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。

「しかし解りませんよ」

「いいえ解ってるのよ」

「じゃ気がつかないんでしょう」

「いいえ気もついているのよ」

「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」

「まあそうよ」

 津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し立をしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。

「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」

 夫人は微かに溜息を吐いた。

「ああああ張合がないのね、それじゃ。せっかく私が丹精して拵えて来て上げたのに、肝心のあなたがそれじゃ、まるで無駄骨を折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」

 津田は迷宮に引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追かけなければならなかった。そこには自分の好奇心が強く働いた。夫人に対する義理と気兼も、けっして軽い因子ではなかった。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促がした。

「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。「その代り訊きますよ」と断った彼女は、はたして劈頭に津田の毒気を抜いた。

「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」

 問は不意に来た。津田はにわかに息塞った。黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。

「じゃ質問を易えましょう。――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです」

 今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。

「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」

「突然関さんへ行っちまったのね」

「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾の昔に通り越していましたね。あっと云って後を向いたら、もう結婚していたんです」

「誰があっと云ったの」

 この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然るに夫人はそこへとまって動かなかった。

「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」

「さあ」

 津田はやむなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。

「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」

「さあ」

「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」

「どうも平気のようでした」

 夫人は軽蔑の眼を彼の上に向けた。

「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」

「あるいはそうかも知れません」

「そんならその時のあっの始末はどうつける気なの」

「別につけようがないんです」

「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」

「ええ。だからいろいろ考えたんです」

「考えて解ったの」

「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」

「それだから考えるのはもうやめちまったの」

「いいえやっぱりやめられないんです」

「じゃ今でもまだ考えてるのね」

「そうです」

「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」

 夫人はとうとう津田を自分の思うところへ押し込めた。