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明暗 第百四十二章

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明暗 第百四十二章

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夏目漱石

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 しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。夫人が踵を回らさないうちに、津田は帰った。

「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻おっしゃった事は」

「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」

 津田は答えなかった。夫人は念を押した。

「解ったでしょう。後は云わなくっても」

 夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に呑み込めた。しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼には確とした観念がなかった。夫人は笑い出した。

「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」

「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。後を挙げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委ねると同じ事であった。多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという掛念に制せられた。

「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」

「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」

 津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を鍛え上げる事が、すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以だと誤解しているらしかった。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底を探ると、とんでもない結論になるかも知れなかった。彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵えて、相手を苛めにかかるのかも分らなかった。気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲らす方法を講じているのかも分らなかった。幸に自分でそこを認めなければならないほどに、世間からも己れからも反省を強いられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。――こういう言葉が臆面なく彼女の口を洩れた。夫人とお延の間柄を、内面から看破る機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。しかし実意の作用に至ると、勢い危惧の念が伴なわざるを得なかった。

「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上を御覧うじろって云うじゃありませんか」

 いくら津田が訊いても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括った挨拶をした後で、教えるように津田に云った。

「あの方は少し己惚れ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部は大変鄭寧で、お腹の中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧だから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気が多いのよ。だからそんなものを皆んな取っちまわなくっちゃ……」

 夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段の中途で足を止めた看護婦の声が二人の耳に入った。

「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」

 夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。

「何の用でしょう」

 津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。

「大変大変」

「何が? どうかしたんですか」

 夫人は笑いながら落ちついて答えた。

「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」

「何をです」

「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥を掻かなくっちゃならない」

 いったん坐った夫人は、間もなくまた立った。

「じゃ私はもうお暇にしますからね」

 こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。

「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」

 一言の挨拶を彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。