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明暗 第百四十四章

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明暗 第百四十四章

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夏目漱石

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 お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に染みるような夕暮の靄に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢の傍が恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐って手を翳した。

 しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は固より簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火を点けたその書翰の前に彼女の心は躍った。

「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」

 それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関う余裕さえなかった。彼女は台所から膳を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。

「御飯は帰ってからにするよ」

 彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路の角でとまった。彼女はなぜだか病院へ行くに堪えないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。

「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」

 彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅であった。いっそ当初の計画をやめて、叔父の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横わる困難をも想像した。岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼が利かなかった自白を綺麗にしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼っていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑するところであった。

 彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時床の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗に心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食の時間が来るまで、待ち草臥れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。

「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」

 看護婦は体の小さい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群から遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上を付けているだろうか、または除っているだろうか。彼はいつか真面目にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。

 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。

「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後を付け足した。

「今日は奥さんはお見えになりませんね」

「うん、来ないよ」

 津田の口の中にはもう焦げた麺麭がいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。

「その代り外のお客さまがいらっしゃいましたね」

「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥ってるね、あの奥さんは」

 看護婦が悪口の相槌を打つ気色を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。

「もっと若い綺麗な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲かし返された。

「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間がいいと見えて」

 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。

「昨日いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」

「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」

 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。