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明暗 第百四十八章
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夏目漱石
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津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸に推察する事ができた。――夫は彼の留守に小林の来た事を苦にしている。その小林が自分に何を話したかをなお気に病んでいる。そうしてその話の内容は、まだ判然掴んでいない。だから鎌をかけて自分を釣り出そうとする。
そこに明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑もなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。彼女はそれを見つめるだけであった。手を出す術を知らなかった。
悩乱のうちにまだ一分の商量を余した利巧な彼女は、夫のかけた鎌を外さずに、すぐ向うへかけ返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴いてしまったんです。だから隠したってもう駄目よ。あなたもずいぶんひどい方ね」
彼女の云い草はほとんどでたらめに近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰と何の異なるところはなかった。彼女は熱を籠めた語気で、津田を「ひどい方」と呼ばなければならなかった。
反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避ろぐ気色を見せた。お秀の所で遣り損なった苦い経験にも懲りず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧であった。津田はその意味を捕捉するに苦しんだ。肝心のお延にはなお解らなかった。だから訊かれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合がついて、病後の身体を回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんてむちゃくちゃを云い募るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂から手帛を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜り上げる声の間から、句をなさずに、途切れ途切れに、毀れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持して行きたいと思うんです。もしそれを毀損されると……」
お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして閃めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉から外へ滑り出さなかった。彼は云おうか止そうかと思って迷った。けれども時に一寸の容赦もなかった。反吐もどしていればいるほど形勢は危うくなるだけであった。彼はほとんど行きつまった。しかし間髪を容れずという際どい間際に、旨い口実が天から降って来た。
「車夫が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」
幸いお延がお秀の後を追かけて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中の功を奏した時、津田は再度の胸を撫で下した。