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明暗 第百五十五章

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明暗 第百五十五章

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夏目漱石

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 小林と会見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅へ誘いに寄って貰う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。

 その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒を彼に与えるに足りなかった。有体に云えば、彼は小林に対して克明に律義を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後らせても、放縦な彼の鼻柱を挫いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客の位地をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。

 彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見して、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦らしてやろうとまで思案した。

 停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除けて、四辺を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。

 もうだいぶ待ち草臥れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地は津田の降りた舗床と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮ぎる便利があった。のみならず小林は真面にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談をしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩さない彼らの体が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸に解った。

 二人の後には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌を明かに認める事ができた。蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈り込まない々たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵を回らした。そうして二人の立っている舗道を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。

 彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣は見出されなかった。それにもかかわらず彼は到る処に視覚の満足を味わった。しまいに或唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな襟飾を見た時に、彼はとうとうその家の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。

 もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布に遮ぎられて、間接に夜の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉を供えた品の好い食堂であった。

 大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間仏蘭西とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原で、四五遍食いに来た因縁を措くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。

 彼は容赦なく扉を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰ででもあるような風をして、真面目な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。