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明暗 第百六十章

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明暗 第百六十章

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夏目漱石

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 小林は旨く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際どい所へ入り込まなければならなくなった。

「例えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」

「結果は今のごとくさ」

「大変淡泊りしているじゃないか」

「だってほかにしようがなかろう」

「いや、あるんだろう。あっても乙に気取って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」

「馬鹿いうな。そんな出鱈目をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」

「実は」と云いかけた小林は、その後を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。

「実はどうしたんだ」

「実はこの間君の細君にすっかり話しちまったんだ」

 津田の表情がたちまち変った。

「何を?」

 小林は相手の調子と顔つきを、噛んで味わいでもするように、しばらく間をおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。

「嘘だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」

「心配はしない。今になってそのくらいの事を云つけられたって」

「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」

「馬鹿ッ」

 津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。

「貴婦人が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」

 彼は給使の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人怒る訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。

「いったいあの顛末はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」

「それこそどうでも構わないじゃないか」

「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構いだろう」

「そりゃ当り前さ」

「だから先刻から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太を踏んで口惜しがる」

「いつそんな様を僕がした」

「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟られている所以だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね」

「そう頭から自分の拵えた型で、他を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」

「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」

 教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。

「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」

「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」

「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」

「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢だね。観察の下卑て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野なところから云っても」

「そうしてそれが君の軽蔑に値する所以なんだ」

「もちろんさ」

「そらね。そう来るから畢竟口先じゃ駄目なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」

「構わない、擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから」

「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」

「じゃ誰と戦うんだ」

「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動して無役の負戦をさせるんだ」

 津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。

「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭になるだけだから」

 小林は新らしい十円紙幣の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。

「三枚あるね」