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明暗 第百六十三章
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夏目漱石
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二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派とか未来派とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処にも興味を見出だし得なかった彼は、会談の圏外へ放逐されるまでもなく、自分から埒を脱け出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田を厭がらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見の上へ、乙に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉で突き差した手を止めた。
「どうぞお構いなく」
津田が軽く会釈を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴が世の中にいるんだから厭になるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少いろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝な事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐らなくっちゃ」
仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂から煙草を出して火を点けた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸でもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑もうとする一本も、三分経つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻から云ってるじゃないか」
小林は右の手で背広の右前を掴んで、左の手を隠袋の中へ入れた。彼は暗闇で物を探るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間始終眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景が、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠めて過ぎた。
「此奴は懐から短銃を出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
芝居じみた一刹那が彼の予感を微かに揺ぶった時、彼の神経の末梢は、眼に見えない風に弄られる細い小枝のように顫動した。それと共に、妄りに自分で拵えたこの一場の架空劇をよそ目に見て、その荒誕を冷笑う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻放り込んだ札でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片と違って活きてるから。こうやって、手で障って見るとすぐ分るよ。隠袋の中で、ぴちぴち跳ねてる」
小林は減らず口を利きながら、わざと空しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」
彼は左胸部にある表隠袋へ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮み出したものは皺だらけになった薄汚ない手帛だけであった。
「何だ手品でも使う気なのか、その手帛で」
小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩いた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
彼の洋袴の隠袋から引き摺り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何訳ゃないやね、少し長いけれども」
封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。