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明暗 第百六十九章
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夏目漱石
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汽車が目的の停車場に着く少し前から、三人によって気遣われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収まり際の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後から後からと、あたかも前に行くものを追かけるように、隙間なく詰め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配を示した。
思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻会った二人伴の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝しになるのを苦に病んだほどの大嵩なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊いてみるんだ。だが大体間違はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶を顧みた。中折の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
この天眼通に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋とこの大将のあの鞄を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食を認ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後れていたその昼食は、膳を貪ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼っていた。彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
基点に当る停車場は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
爺さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝かけを敷く余地を拵えてくれた。
「今日は空いてて結構です」
爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月に渉って、この線路に集ってくる湯治客の、どんなに雑沓するかをさも面白そうに例の調子で話して聴かせた後で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴れてくるのは実際罪だよ。尻が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
彼は自分の傍に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。