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明暗 第百七十章
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夏目漱石
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軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際などに、老人は急に彼を夢の裡から叩き起した。
「まだ仮橋のままでやってるんだから、呑気なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
本式の橋が去年の出水で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構の家を指して、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家も去年波で浚われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着をきめ込みやがって、掛けかえねえんでさあ」
津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切れ目には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
彼の頭の中は纏まらない断片的な映像のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場まで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物の籃もあった。その葢を開けて、二人の伴侶に夫人の贈物を配とうかという意志も働いた。その所作から起る手数だの煩わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると爺さんも中折も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥を排してつかつか這入って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度も上ったり下ったりした。その山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々と点綴していた。
「あいつは旨そうだね」
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗だよ」
比較的嶮しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場でもないそこに見えるものは、多少の霜に彩どられた雑木だけであった。
「どうしたんだ」
爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折を見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
急に予言者らしい口吻を洩らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家を出る時に、水盃は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶の立往生は御免蒙りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」
爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独り室内に坐っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後にして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」
車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後れちまったよ、大将、お蔭で」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐がないだろう」
「全くだ」
津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場で、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮の空気の中に出た。