title
明暗 第百七十二章
author
夏目漱石
body
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍を塞いでいた。台上から飛び下りた御者はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌ぐほどの高い樹が聳えていた。星月夜の光に映る物凄い影から判断すると古松らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経つ今日まで、いまだこの女の記憶を失くした覚がなかった。こうして夜路を馬車に揺られて行くのも、有体に云えば、その人の影を一図に追かけている所作に違なかった。御者は先刻から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止せばいいと思うのに、濫りなる鞭を鳴らして、しきりに痩馬の尻を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓の存在を憶い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後を跟けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者は馬の轡を取ったなり、白い泡を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架け渡した橋の上をそろそろ通った。すると幾点の電灯がすぐ津田の眸に映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
「運命の宿火だ。それを目標に辿りつくよりほかに途はない」
詩に乏しい彼は固よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家はどれだい」
「へえ、もう一丁ほど奥になります」
ようやく馬車の通れるくらいな温泉の町は狭かった。おまけに不規則な故意とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭を鳴らす事を許さなかった。それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。
宿は手代の云った通り森閑としていた。夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室へ案内された彼は、好時季に邂逅せてくれたこの偶然に感謝した。性質から云えばむしろ人中を択ぶべきはずの彼には都合があった。彼は膳の向うに坐っている下女に訊いた。
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」
下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児にでもなりそうだね」
彼は清子のいる見当を確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留しているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて貰いたいな」
「お湯にいらっしゃる時、この室の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」
「拝見できるのか、そいつはありがたい」
津田は女のいる方角だけ教わって、膳を下げさせた。