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明暗 第百七十六章

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明暗 第百七十六章

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夏目漱石

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 するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切しているので、彼はすぐその確的さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。

 下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異なるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮ぎる壁を目標に置いて、大凡の見当をつけると、畳一枚を竪に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上らない津田の想像で判断するよりほかに途はないとして、今聴えた障子の音の出所は、一番階段に近い室、すなわち下たから見える壁のすぐ後に違なかった。

 ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。

 けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。

「ことによると下女かも知れない」

 こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。

「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」

 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。

「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」

 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。眼は動かなかった。

 同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々まで自分の心に伝えた。

 彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心が有心に変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。

 彼女は普通の湯治客のする通り、寝しなに一風呂入って温まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入を裸のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那の光景を辿るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。

 彼女の姿は先刻風呂場で会った婦人ほど縦ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞が綺麗に通っている派手な伊達巻を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗製の上靴を突かけた素足の甲を被っていた。

 清子の身体が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白く変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。

「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」

 津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。

 やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。