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明暗 第百八十四章
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夏目漱石
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すると清子はその籃をすぐ下女に渡した。下女はどうしていいか解らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。しかし普通の場合に起る手持無沙汰の感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来ずにすんだ。彼はただ間の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜の記憶からくる不審も一倍に強かった。この逼らない人が、どうしてあんなに蒼くなったのだろう。どうしてああ硬く見えたのだろう。あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。
彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら果物を皿に盛るべく命じている清子を見守った。
「どうもお土産をありがとう」
これが始めて彼女の口を洩れた挨拶であった。話頭はそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。もとより嘘を吐く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。
「道伴になったお爺さんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」
「あらどうして」
津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中始終手にでも提げていらしったの」
津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴えた。
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」
清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。嘘から出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。
「相変らずあなたはいつでも苦がなさそうで結構ですね」
「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって同なじ人間ですもの」
この挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
「お望みなら逢わせてやってもいいがね」
「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」
彼女は人指指を自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様のこれにはとても敵いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭で嗅ぎ分ける方なんですから」
「部屋どころじゃないよ。お前の年齢から原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」
「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
下女はこう云って立ち上った。しかし室を出がけにまた一句の揶揄を津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」
日当りの好い南向の座敷に取り残された二人は急に静かになった。津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。清子は欄干を背にして日に背いて坐っていた。津田の席からは向うに見える山の襞が、幾段にも重なり合って、日向日裏の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。それを彩どる黄葉の濃淡がまた鮮やかな陰影の等差を彼の眸中に送り込んだ。しかし眼界の豁い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。見れば北側の障子と、その障子の一部分を遮ぎる津田の影像だけであった。彼女の視線は窮屈であった。しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。
彼女の顔は、昨夕と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅かった。しかしそれは強い秋の光線を直下に受ける生理作用の結果とも解釈された。山を眺めた津田の眼が、端なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。