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明暗 第百八十六章

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明暗 第百八十六章

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夏目漱石

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「昨夕は失礼しました」

 津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘いどころであった。

「私こそ」

 清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。

「この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」

 もしそれを憶い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。

「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」

「じゃ止して下さればよかったのに」

「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」

「でも私への御土産を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」

「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」

「そうですか知ら」

 故意を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻が、彼を驚ろかした。

「だって、わざとあんな真似をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興だって」

「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」

 津田は水盤に溢れる水を眺めていたに違なかった。姿見に映るわが影を見つめていたに違なかった。最後にそこにある櫛を取って頭まで梳いてぐずぐずしていたに違なかった。

「迷児になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」

「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」

「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能だって、あなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ」

「なるほど、そりゃそうね」

 清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。

「いったい何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」

「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」

「解りっこないじゃありませんか」

「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」

 津田は仕方なしに側面から向った。

「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」

「そりゃ話せないわ」

「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」

「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」

「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」

「私の胸に何にもありゃしないわ」

 単純なこの一言は急に津田の機鋒を挫いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。

「なければどこからその疑いが出て来たんです」

「もし疑ぐるのが悪ければ、謝まります。そうして止します」

「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」

「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」

「だからその事実を聴かせて下さればいいんです」

「事実はすでに申し上げたじゃないの」

「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」

「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」

「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口で済んじまう事です」

 今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑に落ちたという顔つきをした。

「ああ、それがお聴きになりたいの」

「無論です。先刻からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」

「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」

「待伏せをですか」

「ええ」

「馬鹿にしちゃいけません」

「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」

「なるほど」

 津田は腕を拱いて下を向いた。