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明暗 第百八十七章

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明暗 第百八十七章

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夏目漱石

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 しばらくして津田はまた顔を上げた。

「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」

 清子は答えた。

「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ」

「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」

「まあそうね」

 清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。

「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」

「ええ何なりと」

 清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。

「何もかももう忘れているんだ、この人は」

 こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目を押すような心持になって訊いた。

「しかし昨夕階子段の上で、あなたは蒼くなったじゃありませんか」

「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」

「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」

「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」

「そう。――それから硬くなりましたね」

「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」

「つまり驚ろいたんでしょう」

「ええずいぶん吃驚したわ」

「それで」と云いかけた津田は、俯向加減になって鄭寧に林檎の皮を剥いている清子の手先を眺めた。滴るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩れながら、ぐるぐると剥けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上経った昔を憶い起させた。

「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎を剥いてくれたんだっけ」

 ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮ぎるものはなかった。柔婉に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然たる警戒の閃めきを認めなければならなかった。

 彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝下女が結ってやったというその髪は通例の庇であった。何の奇も認められない黒い光沢が、櫛の歯を入れた痕を、行儀正しく竪に残しているだけであった。

 津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。

「それで僕の訊きたいのはですね――」

 清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。

「昨夕そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」

 清子は俯向いたまま答えた。

「なぜ」

「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」

 清子はやっぱり津田を見ずに答えた。

「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」

「説明はそれだけなんですか」

「ええそれだけよ」

 もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息を吐くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑えつけた。

「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」

 清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。

「あらどうしてそんな事を御承知なの」

「ちゃんと知ってるんです」

 清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。

「なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。実際よく利くのね」

 冗談とも諷刺とも真面目とも片のつかないこの一言の前に、津田は退避いだ。

 清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。

「あなたいかが」